褒められると反応に困る人へ。褒めをかわして自分を伸ばす最強褒められ力

褒められる
褒められるのは嬉しいんだけど反応に困る。謙遜しすぎて否定を返して相手に嫌を気持ちにさせてしまう。調子に乗ってしまう自分が怖い。
そんな褒められ下手な人が、褒められてもそれを素直に受け止め、同時にさらりとかわし、更に自分を伸ばしてしまうための、最強の褒められ力についてお伝えしていきます。

褒められ上手な方が世間では良いことらしい

褒められた時、素直に受け入れたほうが良い。これは一般的に言われていることなので、ご存知のことと思います。

具体的には、褒められた時に素直に「ありがとうございます!」と言えた方が、
・異性にもてる
・仕事もうまくいく
・人間関係もうまくいく
ことが明らかです。

褒める側からすると、褒める行為は(悪意がある場合や嫌味の場合は置いておいて…)「褒め」を「与えている」ということもできます。善意で与えているものに対して拒絶されたり、否定的な反応が返ってくれば、確かに気持ちの良いものではなくなってしまいます。

そこまで大げさではなくても、褒められる→拒絶・否定・謙遜しすぎ などの反応を返していると、
・扱いにくい人
・褒め甲斐がない人
・素直じゃない人
・喜んでくれない人
という印象を与えることにつながっていきます。

また、褒められると伸びる、つまり「褒めて伸ばす」教育に効果があることは、科学的にも既に証明されています。体感として感じたことはあるかもしれませんが、科学的な実験でも裏付けのあることなのです。

そうは言っても、なぜか褒められるのを素直に受け取れない。
身構えてしまう。
必要以上に自分を卑下してしまう。
褒められ過ぎは良くないと感じている。

そういう方は少なくないようです。特に、「褒められ方によっては、褒められるのは良くない」という認識は、最近のアドラー心理学人気からも広まってきました。

アドラーさん曰く、「褒めると人は育たない」!?

書籍「嫌われる勇気」で人気になったアドラー心理学では、端的に言うと、

褒める行為によって、褒められる側は
次も報酬としての「褒め」を求めた行動を起こしてしまう。
つまり、「褒められ」依存の状態を引き起こしてしまう。
よって、褒めることは良いことではない。

褒めることについて、このように考えられています。

とはいえ、褒めること全てがダメなのかというとそういうわけではなく、「勇気づけること」や「感謝すること」の方が重要だと伝えています。

褒めることにより、褒められるという対価を求め、その対価に沿った行動を起こしてしまう人を育てるのではなく、勇気づけたり感謝を示したりすることで、相手の行動を認めようということですね。

このことを知っている人からすれば、相手に良い影響を与えよう、相手を育てようと考えているなら、褒めるのではなく勇気づけ、感謝を示す行動に出るはずです。

ですが、いくらアドラー心理学人気と言っても、書籍を読んだことのない人もいれば、読んでいても忘れていたり、正確な理解をしていない人もいるわけです。現に、「嫌われる勇気」という本のタイトルだけが独り歩きして、嫌われても勇気を持てばよい!みたいな理解をされていることもあるんじゃないかなと思います…。

また、アドラーのこの教えが正しいとして、さらにそれを理解していたとしても、それを逆手にとって「褒める」という行動を起こす人がいないとも限りません。そんな風には考えたくはないですが。考えてしまうのは仕方ないので、せっかくならもう少し踏み込んで考えてみます。

褒める側の都合ではなく、褒められる側で対策を打てばよいのだ!

褒められる側で対策を打てばよい

アドラー心理学を知らない相手が、自分にとってダメな褒め方をしてしまう。
こちらはこちらで、褒められることは苦手だし、どう反応していいのか分からない。
どう反応していいか分からず、謙遜し過ぎたら相手に嫌な思いをさせる。嫌がられる。ひどいときは嫌われる。
褒められても居心地良くないし、控えめに言って最悪じゃないか。

だとしたら、褒めるってもはや、攻撃以外のなにものでもない気がしてきました。

そうは言っても、世の中から褒めるという行為はなくなりそうにありません。そのほとんどは善意によって起こっているものだろうし、そこまで大げさに考えて褒めているのではなく、あいさつ代わりにだって褒めるわけですから。

そんな日常茶飯事過ぎる「褒め」。そこまで頻繁なのならば、どんな褒められ方をされても、さらりとかわしつつ、良い反応を行い、しかも自分を伸ばす方向に持っていければ、最強ではないでしょうか。

褒めをかわして自分を伸ばす最強褒められ力

この「褒められ力」に気付いたのは、ある日の何気ない会話からでした。

私はよく、髪型を褒められます。
えぇ、素敵なんです、私の髪型。

あの日も、いつものように髪型を褒められ、いつもと同じ反応を返した私。でも、その反応が少しだけ世間ずれしていたことを、いつもとは違う第三者の反応で知ることになります。

とある女性「石原さん、髪型素敵ですね!」
私「そうなんです!ありがとうございますー!」
それを聞いていたとある男性「・・・すごい自己肯定感ですね(ビックリ)」
私「え…??(ビックリ)」

私があまりにも間髪入れず、「そうなんです」発言をしたことで、聞いていた男性が驚いたというエピソード。そしてその反応に、驚いた私。

私にとって髪型を褒められることは割とよくあることで、いつもと同じ反応、いつもと同じ喜びを感じていただけでした。

なので、何やら違和感を感じます。
「自己肯定感、なのか??」

確かに私は自己肯定感は強い方ですが(かなり)、同時にあり得ないほどのネガティブでもあります。自己肯定感から「そうなんです」発言をしていたとは、自分では思えませんでした。

そこで、自己分析をしてみて、ふと気付きました。

これは、私を褒められているんじゃないから、あっという間に何の遠慮もなく受け入れられたのだ、と。

私の髪型は、あるヘアメイクアーティストさんのお任せによって成り立っています。いつもの席に座り、「好きにしてください」というのが、いつもの私のオーダー。だから私の髪型は、その方の作品だと思っています。

だとしたら、そもそも私が謙遜する必要なんてあるわけないし、「いえいえ、そんなことないですよ!」というのは、そのヘアメイクさんを否定すること。素晴らしい方の素晴らしい技術なんだから、「そうなんです」となるわけでして。

それに、私は自分で髪型をセットすることは一切ありません。セットも何もしなくて良い髪型じゃないと、私には持てあます。それを理解してくれているヘアメイクさんだからこそ、セットの必要のない髪型、伸びてもステキなままの髪型に毎回してくれています。

じゃあ、ヘアセットをしていたら、褒められても謙遜するのか?
それもきっと違います。

ヘアセットをするのは確かに自分かもしれない。でも、そのヘアセット法を編み出したのは私ではない。誰かが一生懸命考え、どこかで伝えてくれたからこそ、私はその方法を手に入れ、出来るようになった(なってないけど)。

そう考えると、何でも自分一人でなんて成り立っていません。

仕事ぶりを褒められた→仕事を教えてくれた人がいる。仕事に対する考え方は自分一人で培ったものであるわけない。
見た目を褒められた→遺伝!あとは自分の努力もあるのかもだけれど、その努力の方法も自分一人で生み出したものであるわけがない。
頭がいいと褒められた→遺伝!もちろん自分の努力もあるのかもだけれど、周りの人の影響の方が大きい。頭が良くなる本とか山のようにあるし。
優しいと褒められた→君が優しくさせてくれているんだよ…。

などなど。

褒められたことを、自分ひとりの功績だと感じ取ってしまうから、変に遠慮したり、褒めを求めすぎたりしてしまうのではないでしょうか。

NHK12月12日の「ねほりんぱほりん」という番組で、ゲストの彼氏いない歴=年齢の「喪女」の方が、

「親の期待にも応えてあげられない、お家断絶の申し訳なさとか。ミトコンドリアぐらいから続いてきた命の連鎖を自分で止めたみたいなのがあって。
地球に背いたみたいな。生命の摂理に反してんじゃねぇかみたいなので頭抱えて夜中泣いたり」

という名言を発し話題になっていましたが、これだって言い換えれば、

「誰かが期待してくれた、褒めてくれたのなら、それはミトコンドリアぐらいから続いてきた命の連鎖の中で、たまたま自分が褒められただけで。
地球の一部みたいな。生命の摂理の一端じゃねぇかみたいなので頭抱えて夜中(うれしくて)泣いたり」

ということになるのかと。

まとめ:褒められると反応に困る人へ。褒めをかわして自分を伸ばす最強褒められ力

褒められることは、誰にとっても嬉しいことです。
それに、褒めて伸ばすというのも事実。

褒められた時は、自分一人でその言葉を受け止めるのではなく、これまで関わってきた人たちや事柄を通して褒められていると知れば、変に驕ってしまうことも、謙遜しすぎてしまうこともなくなります。

素直にたくさん褒められ、科学的に証明されている「褒めて伸ばす(伸ばされる)」をしっかり取り込んでいきましょう。

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